作り物を評価する文化
"耳の聞こえない作曲家"の真相が世間を賑わせている。
僕には不思議なのだが、このことでコンサートが中止になったりCDが絶版になったりしている。
良い音楽でないなら、わざわざコンサートをしたりCDにしたりしないものでしょう?
それがプロだと思うのだけど。
音楽という芸術においては、盗作でなくても”産地偽装”をすると評価されなくなるということになる。
もし、卓越した芸術であれば、ゴーストライターとして埋もれていた作曲家がいた、という話になる。
そうは言われていないのだから、音楽としては凡庸なものだったのだろう。
それとも、詐欺だからダメなのだろうか。
それなら故・人見安雄のように、犯罪者であり芸術家でもある、といったように独立して評価するには値しないものでしょうか。
ナチス芸術のように、何らかの権威が作り上げた流行として評価し、それが根底から覆されたら評価自体も相対的に覆されるということでしょうか。
感動というものが記憶であるなら、思い出した時に記憶が修正されたために同じように感動できない、ということが問題なのでしょう。
それはともかく、
下腹、二の腕もそのままに ”フォトショ前”の女性モデルを起用した下着ブランドの広告が話題に|ウートピ
フォトショばかりの広告を見続けている女性にとって、理想のスタイルがフォトショ基準になっているのが問題のようです。
健康的なスタイルは二の腕も健康的、という当たり前のことが大事なんですよね。
自然がいちばんでも、”自然です”というストーリーが評価されているんでしょうか。
追記
どうも、”障害者を冒涜している”のが問題のようですね。
日本一ヘタな歌手の舞台化が問題になったのと比べたくなるけれど。